今、私は30代後半だ。アラフォーである。
年上の方からは「まだ若いじゃん」という意見もあるだろうが、世間的にはもう立派な「おばさん」で、私自身、自分を「おばさん」と称するのに何の抵抗もない。
30代前半の頃はまだ自分をおばさんとは言えなかった。内心お姉さん気分だった。
30代半ばになると、少しずつ受け入れられるようになった。
30代後半、我が子のクラスメイトに対して「おばさんはね~、」と、まるで「おばさん」代表のような顔をして話しかけられるようになった。
そりゃそうだ。
だって、鏡に映る私の顔、ちゃんとおばさんなんだもん。白髪も皺も出てきてるんだもん。
30代前半くらいまでの若者にしかない自然な肌のハリ、艶に気づいちゃったんだもん。
同い年の友達も、みんな揃って貫禄出てきてるんだもん。
若い頃の私に対してはぞんざいだった窓口のおじ様が、私にですます口調で話しかけてくるんだもん。
(これは時代もあるかもしれない。)
どうやったって自分がおばさんであることを認めざる得ない状況なのだ。
それにしてもおばさんになって、正直言って本当に良かった。
今、目の前に神様が現れて「お前を20代の頃に戻してやる」と言ってきたら、断ると思う。
だって若い頃って大変だった。苦しかった。
前置きが長くなったけれど、年をとってよかったことの一つ目を書く。
①自分への理解が進み、自分にとっての本当の幸せが分かってきた。
若い頃の私の理想の人物像はこんな感じだった。
「お出かけやイベントが大好きで、社交的ゆえに友達がたくさんいる、おおらかな人。」
長い。なお、おおらかな人とは、「埃くらいじゃ死なないっしょw」みたいな、小さいことにはこだわらない豪快な人のことだ。些末なことは放っておけて、物事の本当に大事な部分に注力できる、そんな取捨選択のうまさ、要領の良さ。素敵だ。
つまりいわゆる陽キャとか、パリピみたいな人が憧れだった。
その理想像を追い求めて、若い頃の私は、例えば夏になれば花火大会へ足を運び、よく知らない人との飲み会など少しでも興味の持てる場には積極的に参加した。
でも、何度も花火大会に行くうちに、私は気づいた。
「あ、私、花火の大きい音も、人ごみも不快だ……。花火大会のどういう訳かヤカラが多い感じもすごく嫌いだ……。値段がやたら高くて、衛生管理がどうなっているのか謎な屋台の食べ物も全然食べたくない……。」
どうやら自分は、花火ならば家の庭で身内とやる手持ち花火か、打ち上げ花火ならテレビ中継されているものを部屋でゆっくり見る方が好きなようだ、と気づいたのだ。
世間一般ではあんなに楽しいとされている夏の風物詩・花火大会を現地では全然楽しめない自分に気づいたとき、私はちょっとショックだった。
よく知らない人との飲み会も同じだった。
緊張しいでコミュ障だから、飲み会では結構飲まないと話せず、べろべろになって醜態を晒したことも一度や二度ではない。迷惑すぎる。
数回行った後で、友達が多い人になりたいという欲求よりも恥ずかしさが勝つようになり、親しい人以外との飲み会にはあまり行かなくなった。周りにとってもそれが良かっただろう。
その頃出会った人で今も友人関係を続けている人は誰もいない。
無理して行ったところでできた友人は長続きしないのだ。
そんなこんなで分かったのは、私の理想像を追い求めても行動しても全然楽しくないということだった、
突然だがあなたは、ストレスが溜まったと感じた時に次のどちらの過ごし方をしたいと思うだろうか。
①人と夜通しパーッと騒ぐ
②家で一人で静かな時間を過ごす
①の人、私はあなたみたいになりたかった。
②の人、同類ですね。私、圧倒的に②です。
①なんてしようものなら逆にストレスが溜まってしまい、翌日は使い物にならないかもしれない。
コロナ禍では①タイプの人々が、人と集って騒げないことにストレスを溜め、悪くすると鬱っぽくなってしまうケースもあったと聞き、気の毒に思うと同時に正直驚いた。
私にとってコロナ禍は、大きな声では言えないが実はけっこう、いやかなり快適だったのだ。
コロナ禍では飲み会などの会食が中止され、にぎやかなイベントも自粛された。
それにより、一人で過ごしている時に感じる、「他の人はこんな時に集まって楽しく過ごしているんだろうなぁ、私って寂しいやつ……」的な焦りが全くなくなった。
だって皆、私のように過ごしているのだから。
なんなら、私みたいな過ごし方が正解とされているんだから。
コロナ禍では遠方の両親と親しい数人の友人に会えないことだけが残念で、他はむしろ以前よりも快適だった。
そんな訳で、私は寂しがり屋ではあるものの、結局根っからの一人好きなのだ。
理想像である、「お出かけやイベントが大好きで、社交的ゆえに友達がたくさんいる、おおらかな人」の「お出かけやイベントが大好き」、「社交的ゆえに友達がたくさんいる」の要素は私には無かった。
では「おおらかな人」はどうなのか。
これまた残念なことに、実際の私はどう考えても神経質の部類なのであった。
私は不衛生なのが嫌いなので、掃除はきっちりやる方だ。
物は掃除の邪魔になるので、基本的に部屋に物を置きたくないと思っている。
学生時代、部屋に余計なものを一切置かずに過ごしていたら、自室に遊びに来た友人が私の部屋を見て一言「刑務所みたいだね」と言った。
若い女性の部屋を見て発される言葉ではない。刑務所って。
埃があっても死なないかもしれないが、そんな部屋では死んでも過ごしたくないと思うあまり、知らず知らずのうちに自ら収監されていた。
そういえば、小学校1年生のときの通信簿には担任の先生から「とても几帳面なお子様です」とのコメントをもらったこともある。筋金入りの几帳面さ。
大らかさが日本ならば、私はブラジルにいるといえるだろう。
大らかな人に憧れて部屋に自分でも良さがよく分からない雑貨をごちゃごちゃと飾ったこともあったけれど、やはり掃除が大変なうえに、目に入るたびに「邪魔だな」と思ってしまい、結局処分してしまった。
今でこそ子供がいるので部屋にそれなりに物があるけれど、自分の物は最小限しか置いていない。
子どものおもちゃが転がるリビングを見ては内心「ああ〜早く大きくなって自分の物は自分の部屋で管理してくれ〜」と思っている。
私はまた、収監されたがっているのだ。
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とにかく私の本質と私の理想像は全く逆だった。
それにも関わらず、私の若い頃は、自分が本当に楽しめるか、好きか、ということよりも、「理想の自分なら」これを楽しむはず、好きなはず、という尺度で物事を判断していた。
理想像を追い求めてその通りに行動して、本当にそうなれる人もいるのだろうけれど、私は理想像と本当の自分が乖離しすぎていて結局無理だと諦めることにした。
でも、私は、だから自分はダメなんだ、とは考えない。
理想像に近づこうとして行動した過去を今の自分が知っているから、いい意味で未練なく諦められる。
若い頃の自分が頑張ってくれたおかげで本当の自分を知れたわけで、過去の行動を無駄だったとは思わない。よく頑張ったよね、ありがとう、若い頃の自分、と思う。
若い頃って自分が分からないから大変だけど、年を取るとその辺だんだん分かってくるから無理なく心地よく過ごせるようになるのだ。
ああ、年を取って良かった。
この調子だと、アラフィフになる頃にはもっともっと自分への解像度が高くなって、めちゃくちゃ自分に合った環境を見つけられるんじゃないのか。
そう思うと年を取るのも楽しみである。
まぁ、そのためにはこれから10年間もある程度の試行錯誤は必要ってことになるけれど。
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